僕はずっと、周りに気を遣いすぎる人間だった。
無意識に相手の感情を読んでしまい、自分を押し殺してでも相手の望む通りに動いてしまう。
人が嫌いなわけではないのに、人といると妙に疲れてしまう。
誰かに何か言われたわけではないのに、自分で勝手に想像を膨らませては空回りし、一人で勝手に疲れ果てている。
そんな自分が、ずっと苦しくてたまらなかった。
なぜ、そんな癖がついたのか?
ところで僕は、なぜこんなにも周りの顔色を窺い、自分を押し殺してしまうような人間になってしまったのだろうか?
考えた末に出た答えは、「生きるためにそれが必要だったから」。
僕は子供の頃から、父親にとても厳しく育てられてきた。
常に父親の顔色を窺い、父の望む行動を先読みして動かなければならなかった。
そうしなければ、子供の頃の僕には居場所がなかった。
つまり僕のこの癖は、あの環境を生き抜くために自然と身につけた処世術だったということ。
その鎧は、今も必要か?
ただ、では今でも子供の頃と同じように他人の顔色を窺い、自分を押し殺して他人の望むように振る舞わなければ、僕は生きていけないのか?と言われれば、決してそんなことはない。
子供の頃は生きていくために必要だったかもしれないが、今はもうその生き方を手放しても、きっと何も問題は起こらない。
ところであなたは、どうだろうか?
例えば、
・弱い自分を隠して大きく見せなければ、居場所がなくなる
・ミスや欠点を認めてしまうと、自分の価値が無くなる
・常に誰かの役に立ち続けなければ、自分が必要とされなくなる
・嘘をついてでも誤魔化さなければ、周りから見放される
そう信じて生きている人は、想像以上に多い。
でも本当にそうだろうか?
かつてはそのルールが必要だったかもしれない。
でも今も、それを守らなければ本当に居場所を失うのか?
あなたを守るその鎧を脱いだら、本当に人生の路頭に迷うのか?
そう問い直すと、答えはほとんどの場合、「そんなことはない」だと思う。
とは言え、これまでの自分の癖を否定する必要は無い。
その癖は、ある意味これまでの自分を守り続けてくれていたもの。
でも、もしその癖によって今の自分を縛り付け、自らを苦しめてしまっているのなら、きっとそれは手放すべきタイミングにもう来ている。
鎧を脱ぐ決意をした日
人との関係に悩み、疲れ果てた僕は、ある時期から“いい人”を演じ続ける自分に疑問を持つようになった。
今のこの自分は、果たして本当に自分の望んだ姿なのか?
…いや、違う。
もっと自信に満ち溢れた、カッコイイ男に僕はなりたい。
心の底では、ずっとそう願っていたはずじゃないのか。
そう気づいてから、これまでの生き方を手放す決意を僕はした。
自分にとっての理想の人物を見つけては、その人間の行動・立ち振る舞い・価値観・信念・生き方・選択や判断の仕方…あらゆることをストーカーのように観察して真似し続けた。
そして自分なりに理想を突き詰めた結果、僕なりの目指す姿が見えてきた。
「周りを受け入れる器を持ちながらも、それに流されず、自分の生き方を貫き通す。そして周りの人間の想定内に収まらない、そんな周囲の理解を超えた読めない男。」
これまでの自分とは、まさに真反対とも言える人間。
でもそういう人間に惹かれ、そして憧れるということは、つまり自分の中にもその要素があるという証拠。
僕はそう確信した。
恐れていた未来は、来なかった
これまで自分を守ってきた鎧を脱ぐのは、正直怖かった。
失敗を誤魔化さず、自分を守るための言い訳も一切しない。
相手の同情を買うような振る舞いも一切しない。
自らの意思で人のために動くことはあっても、人の都合に合わせて動くことはしない。
気の進まないことや無理なことは、ちゃんと断る。
周りの同調圧力に流されず、自分の意見はきちんと表明する。
自分を分かってもらおうと一生懸命になるのをやめ、そして周りから理解されなくても自分が正しいと思ったことをやる。
気づけば僕は、これまでの自分とは真反対の人間を演じるようになっていた。
周りから見放されるのではないか?
居場所がなくなるのではないか?
そんな恐怖は確かにあった。
でも、恐れていたような事態は何も起こらなかった。
実際に一部の人間とは少し疎遠にはなった。
多少の摩擦も、あった。
が、結果的に自分と本当に合う人間が残ってくれて、むしろこれまでより生きやすくなっていた。
もう必要のなくなった鎧は、少しずつ脱いでいい。
あなたの変化に対し、周りが戸惑うこともあるかもしれない。
それによって人間関係に多少の摩擦が起こることもあるかもしれない。
でも、あなたが恐れている最悪の事態は、きっと起こらない。
あなたの人生は、あなたを主人公とした、あなたの物語。
その鎧を脱いだ先に、きっとあなたらしい人生が待っている。
僕は、そう確信している。
