#102『人に何かをしてもらうのが苦手な人は、自分を許せていない』 | Life Compass
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#102『人に何かをしてもらうのが苦手な人は、自分を許せていない』

ところであなたにちょっとお聞きしますが、人に何かをしてあげるのは自然にできるのに、逆に人から何かをしてもらうとなると妙に遠慮してしまう、って事はないですか?

自分の脳が、人に何かを与えることには許可を出すのに、人から何かをもらおうとすると、途端に許可を出そうとしなくなる、みたいな。

人に奢ることはできる。
頼まれ事を引き受けることもできる。
でも誰かが何かをしてくれようとしたり、プレゼントをくれようとしたりすると、反射的に「いや、大丈夫です」と断ってしまう。

実はこれ、僕自身の話でもあります。
若い頃からずっと、僕にもこういった傾向があったのですが、こうなるまでに何か特定のきっかけがあったわけではありません。
むしろ、育ってきた環境や周囲との関係性の中で、じわじわと形成されていったという感じでしょうか。

なぜ、与えることは平気なのに、もらうことには抵抗を感じるのか?
もしあなたも僕と同じように感じているなら、少々お付き合いください。


■与える側にいれば、主導権はこちらにある

最初に思いついたのは、「借りを作りたくない」という発想。
何かをもらうと、心理的に「お返ししなければ」という負債感が生まれる。
与える側にいる限り、その負債感を感じずに済む。

でも、これだけでは説明がつかないことに気づいた。

僕の場合、心を許している相手からは、あまり抵抗なく何かを受け取れる。
逆に関係の遠い相手からだと、強い抵抗感を感じる。
もし「借りを作りたくない」というのが本質なら、信頼している相手に対しても同じように負債感は発生するはず。
それなのに近い相手からは、けっこう平気で受け取れてしまう。

ここでもう一つの仮説が見えてきた。
「与える側にいれば、常に主導権はこちらにある」という視点。

何かを与えるという行為は、自分のタイミングで、自分の裁量で行える。
だから安全にコントロールできる。
一方で「もらう」という行為は、相手の善意や評価に自分を晒すことになる。
相手が何の駆け引きもなく純粋にそれを僕に与えたいと思っているだけなのか、それとも義理や何らかの計算でやっているのか。
そこはコントロールできない領域。

関係の遠い相手からのギフトや好意は、「この人が本当に何を求めてこれをくれているのか分からない」という状態で受け取ることになる。
相手の意図が読めない。
下心があるかもしれない。
後で何かを要求されるかもしれない。
そういう不確実性の中では、受け取るという行為そのものが、自分の立場を弱くすることに感じられてしまう。

つまり「もらえない・受け取れない」という反応は、単なる負債感の忌避ではなく、「相手の意図を完全に把握できていない状態で、自分の立場を弱くしたくない」という、警戒心に近いものだったのではないかと思っている。


■過去の対人恐怖症の、最後に残った痕跡

これまでも幾度か話したことがあると思いますが、かつての僕は対人恐怖症で、人とどう接したらいいのかも分からず、人間関係に大きな悩みを抱えていました。

考えてみれば、その頃の僕にとって、あらゆる相手が「意図の読めない、関係の遠い相手」だった。
誰と接する時も、相手が何を考えているのか分からず、常に身構えていた。

今ではもう昔のように変に身構えることは無くなりましたが、その頃に染みついた警戒パターンが、関係が遠い相手に対してだけ今も反応として残っているのだとしたら。
これは克服したはずの対人恐怖症の、最後に残った痕跡のようなものなのかもしれない。

普段の人間関係では、もうそこまで悩まされることはない。
ただ、関係の遠い相手からの好意を受け取る瞬間にだけ、昔の回路が静かに顔を出す。


■ひと呼吸置いて、受け取ってみる

この「もらえない」という反応は、頭で考えるより先に、瞬時に発動している。
誰かが何かをくれようとした瞬間、考えるより先に「いや、大丈夫です」と口が動いてしまう。
まさに1つ前の記事にでてきた直感と同じ回路。
今までの自分の経験が、一瞬で「断る」という答えを弾き出している。
(前回記事:#101『人間関係が苦手だった僕を変えた、「直感の逆を行く」という選択』)

だとしたら、対処法も直感への向き合い方と同じでいい。

誰かが何かをくれようとしたとき、反射的に断る前に、一瞬立ち止まり「今、なぜ断ろうとしたのか?」を自分に問いかけてみる。
そして受け取ったとしても何ら問題が無いのであれば、それをあえて受け取ってみる。

もし僕が与えることでしか安心できないのなら、それは対等な関係ではなく、無意識に「自分は与える側、相手は受け取る側」という構図を作ることで、対人関係の不安をコントロールしようとしているだけなのかもしれない。

本当に対等であるなら、与えることも、もらうことも、同じくらい自然にできる関係のはず。


■役割を固定すれば、弱さを見せずに済む

考えてみれば、人間関係というのは「与える人」と「受け取る人」が固定された状態ではありません。

ある時は自分が助ける側になり、
ある時は自分が助けてもらう側になる。

ある時は話を聞いてあげて、
ある時は自分の話を聞いてもらう。

ある時は誰かに何かをプレゼントして、
ある時は自分がプレゼントを受け取る。

そうやって、与える側と受け取る側が入れ替わっていく。
それが、対等な関係なのだと思います。

ところが僕のように「与えることはできるけど、受け取ることが苦手」という人間は、知らないうちに自分の役割を固定してしまう。

「僕は与える側」
「僕は人を助ける側」
「僕は人に迷惑をかけない側」

そうしておけば、自分の弱いところを相手に見せなくて済む。
誰かに頼る必要もない。
誰かの好意に身を預ける必要もない。

一見すると、とても自立しているように見えます。
でもその裏側には、「人に何かをしてもらう自分を許せない」という感覚が隠れているのかもしれない。


■受け取ることも、相手を大切にする行為

ここが、今回の記事を書きながら僕が一番考えさせられたところです。

僕はこれまで、「人に何かをしてあげる=相手のため」だと思っていました。
でも、もしかすると「受け取ること」も、相手のためになる。

誰かがあなたに何かをしてあげたいと思っている。
その好意をあなたが受け取ることで、その人は「誰かの役に立てた」という感覚を得ることができる。

だとしたら、「いや、大丈夫です」と断ることが、必ずしも相手への配慮になっているとは限らない。
むしろ、「ありがとう、嬉しいです」と素直に受け取ってあげることのほうが、相手の気持ちを大切にしている場合もある。

もちろん、相手に何か下心がある場合もあるでしょう。
だから、何でも無条件に受け取ればいいという話ではありません。

でも相手が純粋な好意で何かをしてくれているのなら、「ありがとう」と言ってそれを受け取る。
それは単に自分が得をするということではなく、相手の「あなたに何かしてあげたい」という気持ちを、ちゃんと受け止めることでもある。

そしてその「ありがとう」は、すぐに同じだけ返さなくてもいい。
その場で帳尻を合わせる必要もない。
「今日は僕が受け取る側だった」それだけで良くて、また別の日に今度は自分が誰かに何かを与えればいい。

人間関係というのは、毎回きっちり50対50でなければ成立しないものではない。
長い時間をかけて見れば、与えたり、受け取ったりしながら、ゆっくりバランスが取れていくものなのだと思います。


■受け取れる人は、人を信頼できる人

僕は長い間、「人に何かをしてあげられる人間になろう」と思ってきました。
それは今でも大切なことだと思っています。

でも、これからはもう一つ、「人から何かを受け取れる人間になろう」とも思っています。

誰かの好意を疑いすぎない。
すぐに借りを返そうとしない。
相手に何かを握られることを恐れない。
そして必要なときには、「ありがとう」と言って素直に受け取る。

人を信頼するということは、相手に何かをしてあげることだけではなく、「相手が自分に何かをしてくれることも、許す」ということなのかもしれない。

そう考えると、僕が長年「人からもらうこと」に抵抗していたのは、相手を拒絶していたというより、「自分は誰かに頼ってもいい」「自分は誰かに何かをしてもらってもいい」という許可を、自分自身に出せていなかっただけなのかもしれません。

もしあなたにも、「人に何かをしてあげるのは平気なのに、してもらうのは苦手」という感覚があるのなら、次に誰かがあなたに何かをしてくれたとき、一度だけ立ち止まってみてください。

いつものように、
「いや、大丈夫です」
と断る前に。

その好意を、本当に断る必要があるのか?
そしてもし断る必要がないのなら、ただ一言「ありがとう」と言ってみる。

それだけでいいのだと思います。

与えることだけが、人に優しくする方法ではない。
時には、相手の好意を素直に受け取ることもまた、その人を大切にする方法なのだから。

仁より