かつての僕は、誰にでも好かれようとしていた。
上司からも。
同僚からも。
友人からも。
あまり接点のない知人からさえも。
自分に関わる人間には、できるだけ良く思われたい。
嫌われたくない。
変な人だと思われたくない。
有能でデキる人だと思われたい。
だから、いつも相手の顔色を見てきた。
言葉を選んできた。
相手の反応を気にしてきた。
もし誰かから少しでも悪く思われたと感じると、それだけで自分の価値まで否定されたような気がした。
今思えば、かなり生きづらいことをしていたと思う。
なぜならこの生き方は、自分の人生の評価を、他人に委ね続ける生き方だから。
でも、今は違う。
とは言え、僕は今でも、人からの評価を気にする。
ただし、誰の評価でも気にするわけではない。
自分が尊敬する人
自分が目指している人
「こんな人間になりたい」と思える人
そういう人たちから、どう見られるかは気にする。
一方で、価値観の合わない相手や、悪意を持って僕の足を引っ張ろうとしてくる人、あるいは僕の人生にほぼ影響を及ぼすことのないであろう「その他大勢」の評価は、ほとんど気にしなくなった。
なぜ、僕はこうも真反対と思えるような人間に変わったのか?
今回、少し整理してみようと思う。
もしあなたが今、自分を取り巻く人間関係に振り回され、思うように生きられないと悩んでいるなら、何かしらヒントになれるかもしれない。
■尊敬する人の視点は、未来の自分の目
僕が尊敬する人や、僕が憧れ目指す人というのは、いわば「理想を叶えた未来の自分の姿」。
だから、その人からどう見られているかを気にするということは、「理想を叶えた未来の自分から見て、今の僕はどうだろう?」と確認しているようなもの。
今の自分には何が足りないのか?
何を変えたほうがいいのか?
どんな考え方・行動・生き方をすれば、なりたい自分に近づけるのか?
その答えを、その人の目を借りて確認している。
そう考えると、尊敬する人の評価を気にすることは、決して「他人の目を気にしている」ということではない。
むしろ、自分自身と向き合うために、他人を一つの物差しとして使っている。
そんな感覚に近い。
■嫌いな相手の評価に、人生を預ける必要はない
では今度は、これを逆に考えてみると、どうだろうか。
自分が嫌いな相手。
悪意を持ってこちらの足を引っ張る相手。
いわゆる、自分が「こんな人間にはなりたくない」と思うような人生を歩んでいる人。
そんな人から良く思われることに、一体何の価値があるのだろうか。
もちろん、その相手が言っていることの中に自分が見直すべき点がもしあるなら、耳を傾ける必要はある。
でも「こうはなりたくないな」と思っている相手から評価してもらおうとすることは、その人と同じ人間になろうとしているようなもの。
つまり、その人から認めてもらう必要はない。
そう考えるようになってから、「まぁ別に、どう思われたっていいか」そう思えるようになってきた。
むしろ途中から、そんな相手から「近寄りがたい」と思われるような行動さえ取り始めるようになっていた。
別に誰からも好かれる人間になろうとする必要はない。
自分が尊敬できない相手から嫌われようとも、それで自分の軸を守れるのなら、そのほうがいい。
誰にでも好かれることと、自分らしく生きることは、必ずしも両立しないのだから。
■評価には「質」がある
こうして考えてみると、僕は「評価を気にしなくなった」というわけではない。
正確には、評価の「質」を選ぶようになった。
以前の僕は、誰からの評価でも同じように受け取っていた。
尊敬している人の一言も。
どうでもいい相手の一言も。
自分を嫌っている人の一言も。
全部、同じように自分の中に入れていた。
だから、しんどかった。
誰かに何かを言われるたびに、
「自分は間違っているのか?」
「嫌われたのだろうか?」
「直したほうがいいのだろうか?」
と考える。
そのたびに、自分の軸が揺れた。
でも今は違う。
まず最初に、「自分は、どうなりたいのか?」という軸がある。
そのうえで、その軸に近い場所にいる人の言葉なら、耳を傾ける。
自分の成長につながると思えば、取り入れる。
でも、それ以外の評価は、無理に受け取らない。
これは人を見下しているわけではない。
ただ、誰の言葉を自分の人生に参加させるのかを、自分で決めているだけ。
■気にしないことと、壁を作ることは違う
誤解してほしくないのですが、これは「嫌いな人間を排除しよう」という話ではありません。
自分と価値観が違う人を見下したいわけでもない。
人間関係を「仲間」と「敵」に分けたいわけでもない。
ただ、自分がどこへ向かいたいのかを決めたうえで、「誰の言葉を判断材料にするのか」を、自分で選ぶようになっただけだ。
以前の僕は、その選択権を持っていなかった。
関わる人すべてに、無意識のうちに「自分を評価する権利」を手渡していた。
だから、相手の一言で一喜一憂していた。
でも、今は違う。
誰の言葉を受け取るのか。
誰の言葉を受け取らないのか。
その選択権は、常に自分の手の中にある。
■選択権を取り戻すと、人生からノイズが消える
この選択権を取り戻してから、いくつもの変化があった。
まず、感情を揺さぶられることが目に見えて減った。
冷静でいられるから、判断すべき時に迷うことも少なくなったし、判断スピードそのものも以前と比べものにならないほど速くなった。
つまり「人からどう見られるか?どう思われるか?」という余計なノイズが減ったことで、自分が本当に考えるべきことだけに集中できるようになった。
とは言え、もちろん判断を間違えなくなったわけではない。
ただ、
「嫌われたくないから」
「変に思われたくないから」
「認めてもらいたいから」
そういった理由だけで、自分の選択を曲げることは無くなった。
そして、それと共に人間関係も変わった。
人に気を遣い、波風を立てないよう「いい人」を常に演じていた人間が、それをやめてしまう。
当然、周りとの多少の摩擦は避けられない。
以前なら避けていたような、「この人には嫌われるかもしれない」という状況も増えた。
それでも、結果として人間関係は整理された。
そうやって自分にとって不要な人間関係が整理され、本当に必要な人間とだけ深くつながることにより、人間関係を調整するためにエネルギーを消費することが無くなった。
そして、その余ったエネルギーを自分の人生のために使えるようになった。
この頃から、僕の人生は動き始めたように思う。
そして最後にもう一つ、自分でも意外だった変化がある。
それは、僕自身の視野が広くなったこと。
以前の僕は、いつも「相手が自分をどう見ているか?」というレーダーを張り巡らせていた。
嫌われていないか…
怒らせていないか…
変に思われていないか…
認めてもらえているか…
そんなことばかり考えていた。
つまり、僕の中にある貴重なリソースの大部分を「自分がどう見られているかの監視」に割いていたんだと思う。
でも取り入れるべき評価を選別するという視点で世界を見るようになってからは、今まで気にしていた周りの声や視線の中に、実は気にする必要のなかったものが、想像以上に多く混じっていたことに気づいた。
すると、「他人からどう思われようと、まぁ別にどうでもいいか」と、けっこう本気で思えるようになった。
人の目が気にならなくなればなるほど、これまでのように「相手はこう思ってるんじゃないだろうか」とネガティブな妄想が勝手に暴走することもなくなり、まるで穏やかな湖面のように感情は静かになっていく。
今まで目の前しか見えていなかったのが、周囲の人間の考えていることや感情の状態、その背景にある事情や状況、そして自分の心理状態まで冷静に眺められるようになった。
まさに世界の見え方そのものが、変わった。
■本当に手に入れたもの
こうして振り返ると、
迷いが消え、判断スピードが速くなった。
人間関係の余計なメンテナンスから解放され、必要なことに自分のリソースを集中させられるようになった。
自分を取り巻く状況を冷静に観察し、より正しいと思える判断を下せるようになった。
そして自分が進みたい方向・進むべき方向が、よりハッキリと見えるようになった。
でも、本当に大きかったのは、そこではない。
一番大きかったのは、自分の人生のハンドルを、自分の手に戻せたこと。
以前の僕は
相手に嫌われないように、
周りに認めてもらえるように、
みんなから「いい人」だと思ってもらえるように、
そうやって、自らの人生の進む方向を決めていた。
だから、いつも遠回りばかりしてきた。
本当は右へ行きたいのに、誰かの顔色を見て左へ曲がる。
本当はやりたいことがあるのに、人にどう思われるかを考えて諦める。
本当は言いたいことがあるのに、嫌われるのが怖くて飲み込む。
そんな小さな遠回りを、何度も何度も繰り返していた。
今は違う。
誰に好かれるかではなく、自分がどこへ行きたいのか、そこを見るようになった。
だから、「評価を気にしなくなった」というのは、少し違う。
僕が手放したのは、評価そのものではない。
自分の人生に関係のない人たちの評価まで、背負おうとすることをやめたこと。
誰の言葉を受け取るのか。
誰の言葉を手放すのか。
誰の目を気にするのか。
誰の目を気にしなくていいのか。
それを決めるのは、他人ではない。
どんな時でも、自分。
そしてそれができるようになると、穏やかな静寂が、自分の人生に訪れる。
余計なことに傷つかなくなる。
余計なことに迷わなくなる。
余計なことに時間を使わなくなる。
その結果として残るのは、自分が本当に大切にしたい人と、自分が本当に進みたい道と、そこへ向かうための時間と集中力。
僕にとって、「評価を気にしなくなった」というのは、そういうことだった。
誰からも認められる人生ではなく、自分が認められる自分になるための人生を選ぶ。
そのために必要なら、嫌われてもいい。
誤解されてもいい。
近寄りがたいと思われてもいい。
少なくとも僕はもう、自分がなりたい自分になるための人生を、他人の評価などに邪魔させるつもりはない。
あなたは、どうだろうか?
仁より
