#89『火葬場で出会った、僕だけに見える女性』 | Life Compass

#89『火葬場で出会った、僕だけに見える女性』

その日も、いつもと変わらない仕事だった。

葬儀を終えて霊柩車に乗り込み、お客さんと一緒に火葬場へ向かう。
火葬が始まると、お客さんと共に二階の待合室で時間が来るのを待つ。
それが、いつもの流れ。

二階の待合室は広い大広間で、遺族の方々がそれぞれ静かに過ごしている。
お茶を飲む人、食事をする人、お喋りする人、ぼんやりと窓の外を眺める人。

僕はそういう時間が、嫌いじゃない。
葬儀の最中は、式の進行や細かい段取りに意識が向いている。
でも火葬場の待合室では、時間がただゆっくりと流れる。
そして僕らはお客さんの傍にいて、必要があれば対応する。
それだけでいい時間だ。

20年以上この仕事をしていると、そういう「ただそこにいる時間」に慣れてくる。
死の場所にいることが、日常になる。
その日も、そのはずだった。


ふと、視線が止まった。

待合室の通路を、一人の女性がゆっくりと歩いていた。
小柄な、年配の女性だった。

最初は、どこかのご遺族かと思った。
でも、何かが引っかかった。

上手く言葉にできないのだが――その女性の体の輪郭が、黒くボンヤリとぼやけているのだ。
まるで、そこだけ空気がにじんでいるような。
墨を水に垂らした時のような、あの感じ。
生気、というものが感じられなかった。

周りの人たちは、それぞれ自分の悲しみの中にいた。
でもその女性だけが、何か別の層にいるような、そんな異質な雰囲気をまとっていた。

女性はしばらくの間、待合室をウロウロと歩き回っていた。
何かを探しているのか、それとも何かを待っているのか。
目的があるような、ないような、不思議な動き方だった。

しばらく歩き回った後、やがて女性は階段の方へと向かい、一階へと降りていった。
一階には、火葬室がある。


しばらくして、僕の知り合いの業者さんが階段を上がって二階へやって来た。
ちょうど火葬室の手前で、あの女性とすれ違ったはずだった。

「さっき、すれ違いませんでしたか。火葬室の前で、小柄な年配の女性と…」
そう声をかけると、その人はポカーンとした顔をした。
「え? 誰ともすれ違わなかったけど…」

聞き間違いかと思って、もう一度聞いた。
でも何度聞いても、答えは同じだった。
誰ともすれ違っていない、と。

…おかしい。
あの女性は確かに階段を降りていった。
すれ違わないはずがない。

今度は、待合室にいた他の葬祭業者さんたちに声をかけた。
「さっき、通路をウロウロしていた小柄な女性がいたじゃないですか」
「は? そんな人、見てないよ」
誰も、知らないという。

僕はもう一度、待合室を見渡した。
もちろん、あの女性はもうどこにもいない。
僕だけが、見ていた。


あの女性は、何者だったのか。
正直に言って、今もわからない。

霊感、という言葉が頭をよぎった。
実は母方の祖母が、霊感の強い人だった。
亡くなった人と会話のできる人で、もしかするとその血を僕が受け継いでいるのか?
…いや、おそらくそれはない。
僕に霊感があるとは思えない。

では、たまたま波長が合ってしまったのか。
あの女性が何か伝えたいことがあって、僕のアンテナが偶然受信してしまったのか。
それとも、僕個人に対して何かを伝えるために現れたのか。

いくつか考えてみたが、どれもしっくりこない。
ただ、ひとつだけ――腑に落ちる、とまではいかないけれど、他の仮説よりも少しだけ「そうかもしれない」と思える考え方がある。

それは、僕に「見える力」があったのではなく、僕が「見えなくならなかった」だけなのではないか、ということ。


ほとんどの人は日常を守るために、必要のないものを「見えないようにする」フィルターを持っているのだと思う。

意識してそうしているわけじゃない。
ただ、普通に生きていくために、人間が無意識に身につける防衛反応のようなものだ。

死の気配や、こちら側とあちら側の境界線にあるものを、自然とシャットアウトする。
そのフィルターがあるから、僕たちは日常を日常として送ることができる。

でも僕は、20年以上この仕事をしてきた。
亡き人と向き合い、遺族の悲嘆と向き合い、「死」を日常として扱い続けてきた。
火葬場の待合室で故人が灰になるのを待つことが、ルーティンになった。
死の匂いのする場所にいることが、当たり前になった。

その結果として――死とこちら側の境界線に対するフィルターが、気づかないうちに薄くなっていたのかもしれない。

あの日、待合室にいたのは僕だけではない。
他の葬祭業者さんたちもいた。
彼らもプロだ。
でも、誰も見ていなかった。

僕が特別だったわけじゃないと思う。
ただ、僕は誰よりも長く、死の場所に立ち続けてきた。
それだけのことなのかもしれない。

人は、慣れた場所の空気に染まっていくもの。
僕はずっと、死のそばで呼吸をしてきた。


あの女性が何者だったのか、結局わからないままだ。

何かを伝えたかったのか。
それとも僕のアンテナがが勝手に受信してしまっただけなのか。
火葬室へ向かったあの背中に、どんな意味があったのか。
今もわからない。

ただ、ひとつだけ思うことがある。
あの女性は、誰かに見てほしかったんじゃないか――と。

さ迷っているのに、誰にも気づかれない。
そこにいるのに、誰にも見えない。
…それは、どれほど孤独なことだろう。

僕には何もできなかった。
声をかけることも、手を合わせることも、その場ではできなかった。

ただ、見ていた。
それだけだ。

でも今になって思う。
見えていて良かった、と。

あの女性がどこへ向かったのか、僕には知る術がない。
ただ、見知らぬ僕であったとしても、誰かに存在を認めてもらうことができた。
それで彼女が少しでも、楽になれていたらいい。

そう思いながら、今日も僕は死の場所に立っている。